
■藤棚の下で気づいてしまった
藤は、きれいだった。
淡い紫が風に揺れて、光をやわらかく受け止めている。
あんなふうに、ただ静かに在るだけで美しいものが、
この世にはあるのだと、少しだけ見とれてしまった。
けれど、その下にいる私は、少しも自由じゃなかった。
どこへ行くにも、何をするにも、隣にいる人の気配を気にしている。
歩く速さも、立ち止まるタイミングも、ほんの些細な言葉の選び方も。
機嫌を損ねないように。
面倒な空気にならないように。
そうやって、無意識に調整し続けている自分に気づいたとき、
ふっと冷めた感覚が胸の奥に落ちた。
ああ、私はこの人といて、楽しくないんだな、と。
束縛が強いとか、過干渉だとか、いわゆるフキハラ…不機嫌ハラスメントだとか。
言葉にすればいくらでも並べられるけれど、
そんなことはもう、どうでもいいのかもしれない。
もっと単純な話で、私はただ、自由じゃない。
その事実だけで、十分だった。
■違和感は消えたのではなく、積もっていた
昔は、こんなふうに思わなかった気がする。
あるいは、思っていても、見ないふりをしてきただけかもしれない。
生活があって、家があって、家族がいて。
それなりに穏やかに日々が回っていく中で、「違和感」はいつも後回しにされる。
でも、それは消えたわけではなくて、ただ積もっていくだけだった。
そして、ふとした瞬間に顔を出す。
きれいな藤の下でさえも。
■経済力があっても、簡単には自由になれない
どうして私は、ここにいるんだろう。
そう考えたとき、行き着く答えは、やっぱりひとつだった。
きれいごとではない経済力。
もし、十分なお金があったなら。
もし、自分一人でも問題なく暮らしていけるだけの糧があったなら。
私は、今と同じ選択をしているだろうか。
たぶん、違う。
——そう思ってきた。
でも、ここでひとつ、正直に書いておきたいことがある。
私はもう、「全く何もない状態」ではない。
それなりに準備もしてきたし、条件も、以前よりずっと整っている。
それでも。
長年一緒に過ごした相手と、
はい、さようなら、
と簡単に切り離せるものではない。
理屈ではなく、もっと粘りつくような何かが、そこにはある。
情なのか、習慣なのか。
あるいは、積み上げてきた「世間体」という名の埃のようなものか。
だから思う。
経済力があるからと言って
すぐに自由になれるわけじゃない。
でも、経済力がなければ、
そもそも“選ぶこと”すらできない。
多くの妻が我慢しているのは、
性格でも、愛情でもなくて。
ただ、“選べない状態”にいるからなのだと思う。
そしてもうひとつ。
選べる状態になったとしても、
人はそんなに簡単に、
人生を切り替えられるわけでもない。
だから私は、やっぱり思う。
いつか、自分だけの城を持ちたいと。
今すぐではないかもしれない。
きれいに割り切れる日なんて、来ないのかもしれない。
■それでも「選べる場所」まで来ている
それでも。
少なくとも私は、「選べる場所」まで来ている。
あとは、自分で決めるだけだ。
そのために必要だったものは、もう分かっている。
そしてこれからも、きっと変わらない。
結局のところ、
自由の正体は、経済力なのだ。
良いものに出会ったとき、そっと感謝を形にできる人が好きよ。画面の向こうへの小さな会釈——お帰りの前に、忘れていないかしら?
